2015年7月11日土曜日

1789 バスティーユの恋人たち 宝塚公演、観劇しました!

さて、1789 Les Amants de la Bastilleのオリジナルをわざわざパリまで見に行ってから早3年。
ついに、日本で上演される1789を見に行くことができました!そして、記念すべき初宝塚観劇。ドキドキでした。

初めて宝塚の劇場に来ました!やはり女子、女子、女子笑

作品の潤色度については、いろいろな噂をちょくちょく耳にしていたので、かなり改変が加えらえれていることは知っていましたが、いやあ、変わってましたね笑。全く違う物語に仕上がっていました。「恋人たち」が2組になってたよw、から始まり、アルトワ伯がお耽美神様キャラに格上げされていたり笑。。。話し出したらきりがなくなるのでここら辺で止めておきますが…。

でも、予想通り、宝塚版のほうが、ロナンを中心とした革命群像劇そしてオランプとロナン&アントワネットとフェルゼンの愛の物語という筋書きがはっきりとしていて、起承転結も仏版よりわかりやすくできていたんじゃないかなと思います。

仏版は先に音楽ありきで、物語がそれを追っているって感じで、「革命に散った若い命」、「人間の尊厳」、「命の重さ(あるいは軽さ)」といった主題はかなりはっきりと伝わるんだけど、そこに辿り着くまでの線がどうも曖昧で(四方八方にいろいろ散った挙句、強引に収束、と見えなくも無い展開。。。)、見終わった後、若干きつねにつままれた感がありました笑。それが、宝塚版では、すごく緻密にストーリーが線として作りこまれていて、見終わった後に、いろいろ納得しました(仏版とは全く別の新たなストーリーとしてですが笑。)。でも、こうやって観客をきちんと納得させられるのはやっぱり演出家さんの手腕なんだと思います。

が、その反面、そういった緻密な文脈を作るにあたってかなり大胆な改変が加えられたため、オリジナルでは活きてた設定が、意味不明になっていたことも。でも、まあ、これはある意味仕方のないことな気がします。

セリフは意外と仏語版のセリフを忠実に再現しているものもあり、歌もJe mise tout等はそのまま曲の内容を踏襲していました。が、やはり、大部分が全然違うコンテクストで歌われていたり(La sentence、Je veux le monde etc...)、全然違う歌になっていたり(Pour un  nouveau monde)、、、様々でした。

あと、宝塚版ならでは、と思ったのは、やはり歌。使われた曲をチェックしてみたのですが、宝塚版では、オリジナルから1曲削られた曲(La Rue Nous Appartient)があったものの、シーズン2でしか使われなかった曲が2曲、CDにのみ採用されている曲から1曲、宝塚版の書き下ろし曲1曲が加わっていたので、オリジナルよりも実は、3曲も多い構成でした。これはやっぱり「歌劇団」だからなんじゃないかなと思うのですが。。。

しかもジェンヌさんたちは全員歌が歌えるので(オリジナルはダンサーと歌手は別々なので、実は舞台に立ってる人の大半は歌が歌えないというか、マイクをつけていない笑。したがって、コーラスも全て録音。。。)合唱シーンがすごく良かったなと思いました。これは多くの人も思ったのではないかと思うのですが、「声なき言葉  (原題:Les mots que l'on ne dit pas )」は、実は、元の曲のコンテクストとは全く違うものの(元々は、オランプが、ロナンに伝えられなかった言葉について思いを馳せる歌。)、ハミングの合唱の部分の重層的な響きがこの歌にスケール感を生み出していて、宝塚版のオリジナル曲として華麗なる 変身を遂げていました。

特に歌で自分の中で印象に残ったのは、アントワネット役の愛希れいかさん。透き通るような高音は宝塚ならでは、だと思います(基本的に、フランスではミュージカルに出演する歌手はポップやロックを歌う人たちなので、こういうクラシカルなザ・高音を聞くことはあまりない。)。お美しさも相まってうっとり。

お芝居についても、 宝塚の方がやはり発声等、ザ・舞台といった感じがしました。そもそも、フレンチ・ミュージカルは音楽を中心にしてそれをつなげるために台詞がつくといった感じであることが多く、歌に対する比重が高めなので、台詞部分はそれほど細かくないことが多い気がします(ノートルダム・ド・パリなんて、台詞がそもそもないし。)。

対して、宝塚は、台詞一つ一つが、細かめで、説明的な部分が多いように感じました(分量自体も多かったのかな。。。)。しかも、仏版は、舞台で歌を歌う人はメインの職業は歌手という人が多いので(コンサートやったり、シングルとか出す普通の歌手=舞台とはおよそ無縁な人ということです笑。)、人によっては演技をしたことがないという人もいるので、演技としては、もうちょっと荒削り、ナチュラル目な気がします(決して大根というわけではないですが。)。

あと、上記に関連していることでもありますが、仏版よりも宝塚版は、状況設定が非常にわかりやすくなっていました。これ、実はパリで見ていたとき、私かなり混乱していたので、フランス革命の細かな点に詳しくない私のような人間に は非常に親切だなと思いました。場面が変わるごとにちゃんとどこか文字で示されるし、「三部会」という歌が追加になっていましたが、こういった形でところ どころ解説してくれるシーンがあったり、テニスコートの誓いのシーンではちゃんとテニスコートがセットになっていたり(仏版は何もなかったので、何の シーンかさっぱりわからなかった。)、迷うことなく話の筋を追うことができました。

宝塚でもう一つ忘れてはいけないのは、ダンスだと思いますが、こちら、レビューはさすが!!!でした ^^ 物語の暗いエンディングから一転、突然キラキラ純白お衣装、ミラーボールになるので、ちょっと頭の切替は必要でしたが笑。ラインダンス、羽、羽、羽、はやっぱりフランスって感じがしました!

ですが、劇中のダンスは、オリジナルで筋肉隆々の男性ダンサーが演じていた振りをそのまま持ってくることはできないので、やっぱりその辺はちょっと迫力としては仏版のほうに軍配が挙がるかなという印象でした。Maniaque(邦題:耐えてみせる)やNous ne sommes (邦題:国王陛下の名の下に)等の男臭さ満載の力技が結集されている振り付けはやはりなくなっていたので、その辺の雄雄しさはやはり影を潜めていた気がしました(いや、むしろ、そういう汗臭さは宝塚には求められていないとも言えるでしょう。)。やはり女の子ということもあるのだと思いますが、どうも衛兵の格好も何となくかわいいコスプレにしか見えず(ごめんなさい)、、、ここはやっぱり男性ダンサーのほうがいいんじゃないかなと個人的には思いました。

あと全体的に宝塚のダンスは、綺麗にまとまっていて、確かに美しいのですが、フランスのオリジナルのような迸る感情、エネルギーというのはちょっと薄かったかなという気がします。その影響もあってか、Sur ma peau(邦題:肌に刻み込まれたもの)から最後のバスティーユ監獄のシーンにかけての盛り上がりがイマイチだった気が。あのシーンは民衆の怖いまでの怒り、魂の叫び、新しい世界への想いが渾然となった一種の「カオス」的なシーンなので、もうちょっとそういう観客を圧倒するぐらいのメラメラとしたものを見たかった気がしました。

娘役さんが いっぱい出てくるLa nuit m'appelle (邦題:夜のプリンセス)は割とセクスィーな振りや表情もいっぱいあったのですが(おー、ここまで宝塚でもやるのね、と私は、結構驚きました。)、仏版の女性ダンサーのような匂い立つような妖艶なセクシーさ、加えてガールズ・パワーというか女性としての矜持を高らかに歌い上げるといった要素がやや弱いように思えました。。。(やっぱり、ところどころ、良家の子女っぽさが見え隠れしていて、悪い女を「演じている」感じがした。。。)。

でも、こういうちょっと危険なファム・ファタルなセクシーさというのは、努力して醸し出すものというより、自然に滲み出てきてしまうもの(セクシーな人って、何してもセクシーじゃないですか笑)だと思うので、これはやっぱりl'amourな国フランスで活躍する女子たちと比べると酷かなという気はします。。。さらにいえば、それこそ、そういう露骨なセクシーさというのは、やっぱり宝塚に求められているものとは別物なのかなという気もしました。



さて、観劇後、劇場を後にしたわけですが、、、。


お話の作りも良かったし、歌も上手だったし、演技も良かったし、周りの人の反応も「良かったわね~」で満場一致だったのに、なぜか一人劇場入口で悶々としている自分がいました。。。

その理由を考えてみたのですが、つきつめたところ、細かな変更も含めて、いろいろな面で仏版の「リアルさ」、「エグさ」がなくなって、「美しさ」だけ残っている作品になっていたから、な気がしました。

でも、これは、宝塚の公演ということを考えれば必然的な帰結な気はします。ネットで宝塚の魅力、というのを検索していて、多く挙がっていた理由の一つに「リアルな世界には存在しない夢のような世界に出会えるから」というものがありました。実際、舞台を見てみて、舞台人として洗練された女性たちによる伝統と歴史に裏づけされたまさに粋を集めた舞台であると思いました。ですが、、、ここからは、完全に私の解釈にはなってしまうのですが、、、同時に、あまりに完璧すぎて、「隙がない」というか、「美しすぎる」気が私にはしました。。。

特にそれぞれのキャラクターの解釈がみんな、「いい人」になっていて、お話自体も「イイ話」に変更になっていたのが個人的には気になりました。確かに、仏版も、プロデューサーが、インタビューで革命の最もロマンティックな時代を描きたかった、だから1789年より後の血みどろの恐怖政治の時代は描いていないとおっしゃっていた↓ので(宝塚版にはロナンが拷問されるシーンがありますが、実は、多分こういう背景からか仏版にはロナンが直接暴力を受けるようなシーンは出てきません。)、1789年という人々の理想に燃えた「美しさ」を描こうということではあったんだと思いますし、最後の人権宣言のシーンなどはほんとに心揺さぶられるものがあります。

1789のプロデューサーであるアチアさん、アルベールさんのインタビュー
https://youtu.be/9cPKuI-aWIM

ただ、私が宝塚版を見て思ったのは、宝塚版はやっぱり型がきっちり決まっているというか、とにかく見せ方をかっこよくすることに比重が置かれている気がしました。それに対して、仏版は、同じ「美しい」であっても、その意味合いはちょっと違うように思います。

もちろん、仏版も振付け、衣装、舞台装置は華麗です。でも、それ以上にこの舞台が見せようとしていたもの、それは、人々の「リアルな感情のぶつかりあい」だったのではないかと思います。怒りは怒り、悲しみは悲しみ、憎しみは憎しみ、喜び(悦び)は喜び(悦び)、どの感情もリアルで人間味が溢れています。そして、悲惨なものはとことん悲惨で、無慈悲です(ほんとに、misérable ...)。

例えば、アントワネットの死のシーンは、なかなかエグい演出でしたし、前述のとおり、襲撃のシーンのダンサーの表情には鬼気迫るものがありました。La nuit m'apppeleのダンスの振りには明らかに営みを連想させ、女性が傷つくことを表している振りがあります。革命家同士の喧嘩のシーンも、本気でロナンがデムーランに食ってかかり、ダントンがどうして、憎しみ合わなければいけない?と諭します笑。そして、王太子のお葬式で2人が再会するシーンは、お葬式なのに、オランプの衣装はスケスケシースルー、抑えきれない想いをバトルのように掛け合いで歌い、そして最後にがっつりと抱擁 笑。愛にモラルは関係ありません(爆)。

設定にしても、主人公のロナンの妹のソレンヌは、宝塚版では、兄と仲直りもしますし、最後の方では、昼はカフェで働いており、どうやら娼婦の道から足を洗いつつあるような感じの設定になっています。しかし、仏版の設定では、娼婦のままで、ロナンが置き去りにしたことを謝罪するにもかかわらず、彼女はそれを受け入れず、パンを求め、武器を手に行進へと向かいます。そして、そのまま、ロナンは死にます。

これはオランプの設定にも言えます。仏版では、アントワネットに任を解かれ、ロナンを追いかける、というところまでは同じですが、ロナンと再会してハート<3みたいなシーンはありません。(壁を隔てて、愛を告白する白昼夢のようなシーンが挟み込まれるだけ。。。)その後ロナンに出会うときは、やはりバスティーユ監獄でロナンが凶弾に倒れるところです。やはりこの二人も最後に言葉を交わしたのは、「生きる世界が違う」と認識し、半ば喧嘩別れをしてしまうシーンです。

だからこそ、最後のロナンの死の悲劇性が増すわけですが、宝塚版は、どうも最後にみんな人はいい人になるし、がんばる人はどこかで幸せになることができる、みたいな設定になってたのが、私には安直すぎに思えました。

アントワネットの恋も、宝塚版は、フェルゼンとの純愛、そして、最後はフランス王妃としてルイ16世の貞淑な妻に戻ることを決心する、という些か古風というか、日本人にとって受け入れやすい設定になっていますが、、、仏版は、フェルゼンとの恋が物語の中心でないこともありますが、、、フェルゼンへの恋が宝塚版ほど純粋な愛には見えませんでした(まあ、確かにオランプに私は愛する人を追いかけられない、でもあなたは追いかけなさい、とは言うんですが、フェルゼンが出てくるシーンは、パレロワイヤルの密会シーンだけで、あなた、どうせ女ができたんでしょ!で、終わっているので、やっぱりアバンチュールな恋だったのかしら?という印象は拭えませんでした苦笑。。。)。しかも、浮気をルイ16世に指摘されたときは、「そんな噂を信じるなんて侮辱だわ!」と怒り心頭で、ルイ16世の元に戻る気配もありませんでした。。。というわけで、アントワネットも間違いを犯したけれども、貞淑な妻に戻る、というより感情移入しやすい「いい人」キャラに設定が変更。。。

仏版は、話の筋は突っ込みどころが満載ですし、演技自体は宝塚と比べればだいぶ荒削りだったと思いますが、役者本人がほんとに役を通して、革命を舞台の上で確かに起こしてました。 一人一人の想いが本当に世界を動かすんだ、そう信じさせてくれる舞台でした。

宝塚の演技は手足の隅々まで気が配られていて、発声もくっきり、はっきり。演技の基礎がやっぱりみんなきちんと舞台人として完成しているなあと感心したのですが、拷問のシーンや人々が窮状を訴えるシーンでさえも、なぜかかっこよく見えてしまい(貧しい若者が鞭打たれてるんじゃなくて、スター様が鞭打たれちゃってるー、みたいな感じ。)、、、全てがキラキラに見えてしまいました。。。それがなんとなく、私の中では違和感として残ってしまったような気がします。

新しい時代への理想も、仏版の場合はそういう、妥協のない(苦笑)救いようのない悲惨さ、怒りから、こういう美しい理想が生まれたんだという地に足のついたベクトルを肌で感じることができたのですが、宝塚版は、どうもその辺りが、キラキラ感も相まってか、美しい理想だけが燦然と輝いていて、その裏にある人々の惨状や涙、怒り、憤り、不条理さがどうしてもはっきりと見えてこないなという印象でした。

私はどちらかというと、キラキラ感だけでなく、ドロドロでもリアルな人間の「生」を見たい、というタイプなので(ある意味泥臭い感じ)、宝塚版には宝塚版の良さがありつつも、やっぱり仏版のほうが自分の考える「革命」のイメージにしっくりくるかなあという気がしました。

でも、これは、宝塚と仏版では目指す舞台が違う、ということももちろん関係あると思いますし、フランスと日本の文化の違いということもあると思います。また、単純に何を舞台に求めるのか、で、舞台の見え方も自ずと変わってくるのではないかという気がします。

そして、もう一つ気になったこと。。。これは、自分がフェミニスト寄りな人間だからなのかもしれませんが、、、やっぱり「女性」の役割が極端に抜け落ちていたことがすごく残念でした。

フランスがフェミニストの国なのか、、、というとこれはこれで難しいですが、、、少なくとも、仏版のオリジナルでは、男から見た革命と女から見た革命の両方が半々ぐらいで描かれています。男の見せ場がバスティーユ襲撃なら、女の一番の見せ場は、パンを求めて立ち上がり、惨めな思いはもうたくさん、さあ、みんな革命を起こすわよ!とソレンヌが歌うJe veux le monde(邦題:世界を我らに)だと思うのですが、宝塚版ではこのシーンは男たちが革命後の新しい世界を夢見て歌うという設定に変わっており、女が立ち上がることを明確に示した歌はなくなってしまいました。

この歌は、元々は、新しい世界を求める歌であると同時に、世界を握っているのは女なのよ、男ってのはバカなんだから、という「女王様」ソングでもあります笑。歌詞も中々辛辣で、おー、これは男もビビるわね(笑)、みたいな歌です。そう、女だってファイターなのだ!と私は感激しながら頷いていたわけですが(笑)、この歌のコンセプトが宝塚版ではごっそり消えてしまったために、宝塚版では女性の強さ、したたかさ、ファイティングスピリットが全く描かれない事態となってしまいました。

そのため、なんだか非常にアンバランスな仕上がりになったように思います。これは、男性トップを魅せる演出をする宝塚にとっては仕方のないことなのは重々承知しているのですが、、、私個人としては、この部分は仏版の大事なエッセンスの一つだと思うので、これを落としてしまうと、仏的エスプリが抜けた舞台になってしまうと思います。。。

あと、前述のLa nuit m'appelleは、仏版は、普通は眉をひそめて捉えられがちな「娼婦」という職業を「美」と捉え、そこに見える女として生きる誇りを感じさせる曲なのですが、宝塚版はタイトルが「プリンセス」になってしまっている辺り(どっちかっていうと女王だよなあ。。。なんか一気にかわいくなってしまった。)からして、どうもキラキラ感が拭い去れず、そういった底辺で生き抜いている人の美しさ、したたかさ、たくましさが、どうも伝えきれていない気がしました。やっぱり、典型的な姫キャラではない女性を描くのは、宝塚では難しいのでしょうか。。。「夜に私は自分自身が一番美しいと感じるの。」という歌詞が持つ艶かしさ、誇り、でもその裏側にある脆さ、、、そういう人間の多面性がもう少し見えたら、と思いました。。。

そして、一番、むむむ、と納得いかなかったのは、主人公のロナンの最期。

最後、宝塚版は、オランプのお父さんを守るためにロナンが代わりに死ぬことになっています。これは、、、、確かにイイ話、だけれど、正直、演出として仏版の大事なコンセプトを台無しにしてしまった残念なシーンでした。

上記の仏版のプロデューサーのインタビューに、「なぜ、ロナンを死なせてしまう設定にしたのですか?」という質問があるのですが、彼らは、ロナンの死は、「(革命で犠牲になった人々の)象徴なんだ」と答えています。これは、ミュージカル鑑賞時に私も強く感じたことでしたし、このミュージカルが一番伝えたかったことなのではないかと思います。

ロナンが死ぬシーンは、「ロナン」という個人の死を超えて、もっと普遍的な「犠牲」を意味しており、そういった多大な犠牲と引き換えに、私たちが現在享受する人権だったり、自由といった大事な権利があるということを象徴的に表しているシーンだと思うんです。この仏版のあっけないロナンの死のシーンは、その悲劇性、不条理さを示すと同時に神々しさも感じさせる重要なシーンになっていると思います(プロデューサーさんは、このことを人類の罪を背負って死んでいったキリストにたとえていますが、そういう目で見ると、確かにね、と思うシーンでした。)。

が、宝塚版では「お父さんのため」という完全に個別的な「死」にすり替えられてしまったため、ロナンは愛する人を守るために戦った人という個別具体的な死に留まってしまい、そういうフランス版の大きな背景が見えづらくなってしまったように思いました。これ、東宝版でぜひ変えて欲しい苦笑。そうしないと、この物語単なるラブストーリー&青春物語になってしまうもの。。。

以上、雑感、、、でした。
次回、なんとなく、仏版との違いを羅列してみようかなと思います。


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