2015年3月1日日曜日

Notre Dame de Paris Tournée @ Seoul - Version Originale (française)

さて、先日、実はソウルのあの懐かしのセジョン・センターへノートルダム・ド・パリのフランス語版を見に行ってきました!私にとって、ノートルダム・ド・パリのオリジナルのフランス語版を見ることは、2年前の日本公演のときからの夢だったのですが、実際見てみて、やはりフランス語版良かったです!聞いててすごくナチュラルに聞こえたし、これは言語の性質もあるのかもしれませんが、すごくemotionalに感じるというか、心に訴えかける舞台になっていました。やはり、音楽と言葉は切っても切り離せない関係なのだと改めて思いました。


セジョン・センターでついにノートルダム仏語版を見ることができました!

日本の公演ではアクロバットの鐘やダンス、美しい光の演出等、ビジュアルや「スペクタクルさ」により目が行っていた私ですが、今回、より歌詞がわかるようになったからか、その曲の世界にすっと入って行けた気がします。曲そのものも、何というか、私の体の中に曲が染み込んでいく、そんな感覚を覚えました。

ところどころ歌詞が聞き取れるところがある度に、本当にのっそりしたスピードであるとはいえ、2年前の公演を見ていた頃の自分からは少し進歩した気がして、ちょっとうれしかったです。


去年もガラコンを見に同じ時期にセジョンセンターに来ていたのですが、
あのときは、その次の年にここでまたリシャールたちと再会できる
とは思ってもみませんでした。


また、今回は、それぞれの登場人物の心理ゲームのようなドラマ的部分にも注目して舞台を見ることができました。そして、改めて、この舞台は不思議な魅力を持つ舞台だと思いました。
なぜこれほどまでに自分が、Notre Dame de Parisの物語に惹かれるのか、ちょっと考えてみたのですが、ふと思ったのが、ヒーローが一人も出て来ない物語だから、ということが挙げられる気がします。   
登場人物はどれもどこかに欠点や負の側面を持っていて、とにかく「人間臭い」。そして、それぞれの登場人物は、その人生に苦悩し、もがきつつも(まあ、その苦悩の内容がときどき、あららーな訳ですが笑)、とにかく「生き」ようとする、そんな生き様に自分はきっと惹かれるのではないかという気がします。   
そして物語の「普遍さ」。1482年という設定でありつつも現代に通ずる要素はいっぱいあって、以前のシンガポールの記事でも書きましたが、モダンな演出等で、舞台そのものは、どの時代と特定できない、あるいはどの時代と捉えてもいいような不思議な空間になっています。それぞれのキャラクターの苦悩は、設定が全く現代とは違うとはいえ、どんな人もそれぞれの登場人物に自分や身近な人の経験を重ね合わせられることができるのではないでしょうか。

なんとなく、今回の役別に思ったことを書き留めてみます。


今回2ndキャストというよりローテーションに近かった配役。
奇跡的?に配役を一巡りしました笑。この回はジョンのグランゴワール。
<グランゴワール>

彼の役どころは、他の役と比べて、ナレーターという立ち位置を与えられているからかちょっと不思議。よく考えると他のキャラと比べると、際立ったキャラ設定を与えられているわけではない気がします。でも、気づくとどこにでもいて、ときに、物語の語り部となり、他方、他の登場人物の心情を代わりに述べたり、祭りの司会者になったり、エスメラルダの相手にされない旦那になったり(笑)、、、他の登場人物の間を縫うように、全てを観察し、見届け、言葉にとどめていきます。

一緒に鑑賞したミュー友の方が、舞台を見ているとときどき、グランゴワールの頭のなかの物語、というか陰謀に巻き込まれているかの感覚になる、と言っていたのですが、なるほどーと思いました。確かに舞台を改めて見てみると、彼の登場の仕方はまさに神出鬼没笑。歌ってないシーンでも実はそこかしこに彼がいます。

リシャールに舞台後、お話しした際に、グランゴワールは、歌っていないけれど、舞台に出ているシーンが結構あって、それが自分は結構好きなんだ、と言っていたのですが、今回それを頭の中に入れながら舞台を見てみると、本当に、彼は物語の媒介者、仲介者なのだと感じました。

<フロロ>     

出待ちのとき、ロベールさんとフロロのキャラについてちょっとお話をすることができたのですが、記憶が正しければ、ロベールさんはそのフロロの魅力を確か多面性だ、とおっしゃってた気がします。       

そのことを考えながら舞台を見ていたのですが、舞台の中では明らかなBad Guyという立ち位置を与えられているフロロですが、(自分の中でも、堕落神父やエスメラルダを絞首に送って高笑いするイメージがやっぱり印象深かった苦笑。)、ロベールさんの言う通り、実際には、カジモドを虐待しているとはいえ、匿い、育て上げたというある意味優しさを持った人物でもあり、また、エスメラルダを愛してしまったときも、そんな自分を発見して自分に戸惑ったり、最後には嫉妬から自らエスメラルダを絞首台に送ってしまうサディスティックさを持っていたり、多面性や矛盾を併せ持った非常に複雑なキャラだったんだなあということに今更気づきました。この複雑な機微に富んだ感情を繊細に演じるロベールさんには脱帽の一言しかありません。 


公演のカーテンコール。
Richard Charestのグランゴワール。

<エスメラルダ>

ミエンヌは聴くたびに、国を持たないデラシネ(根無し草)である彼女が、運命に導かれるままその日その日を生きていくの、という歌詞にいつもなぜか心惹かれてしまいます。国がないことはある意味、物語の最後に描かれるように、悲劇であると同時に、どこにも属さない自由な存在であることの証でもあります。私もこんな風に自由に生きれたら、、、といつも思う一曲です。

そして、個人的にミュージカルの中でなぜかいつも非常によく記憶に残るのが、Ave Maria païen。異端であるエスメラルダが、ひざまずき方もわからないけれど、どうか私を護ってくださいとマリアさまにお祈りする歌。元々、自分はスピリチュアル人間ではないのですが、この歌を聴いていると「祈る」という行為の普遍性というか、その行為の本当の意味を考えさせられます。ロミジュリのon prieにもありましたが、人は絶望し、人生の道標を見失ったとき、最後に行き着くのがこの「祈り」の行為なのではないかと曲を聴きながら思っていました。曲は基本的に短調ですが、最後長調で終わるところにいつも希望を感じて、本当に心が洗われます。そして、今回の公演でもやっぱり私、ミリアムのこの歌で泣きました笑。

そして、Vivre。今回、3階席で鑑賞した回があったのですが、あの最後の黄色い光が会場に広がる瞬間は、本当に神々しいとしかいいようがありませんでした。愛すること、自由であること、これはエスメラルダの二大テーマであると思いますが、まさにその二つの本質をすべて凝縮した歌。そして、生きることへの渇望を率直に叫ぶこの歌はやはり心を打たれずにはいられません。妖艶さで男たちを次々と虜にするエスメラルダですが、同時に、この歌にも描かれるように、自分の人生、愛に真っ直ぐひたむきに生きる本当に純粋な心を持った女性というギャップもやっぱりすごく惹かれるところであったりします。
NDPを見てから2年経って、改めてこの歌を聴いて、素敵なラブソングだなあと思いました。

<クロパン>

歌の中で一番好きなナンバーは何気にクロパンのCondamnésだったりするのですが、Les sans-papiersもそうですが、クロパンの曲はとにかくかっこいい!特に今回フランス語版だったので、インパクトがある動詞がすべて韻を踏んでエ音で終わるのが小気味よくて、びんびん心に響いいてきました^^

"Comment faire un monde où il n'y aurait plus d'exclus?
Comment faire un monde sans misère et sans frontières?"

という実に社会的な問いも、すごく心に刻まれました。
Les sans-papiersの鬼気迫るダンサーの表情もすごくよかったなあと思います。


John Eyzenのグランゴワール。

<カジモド>

なぜか最後になってしまった。。。今回、なぜか印象に残ったのが、前半のフロロを救世主、主人と崇めていたカジモドの悲しいまでの従順さ、でした。L'enfant trouvé はそれが一番ストレートに出ている歌だと思うのですが、この2人確かに歪んだ関係ではあるのですが、この歌を聴いていると何だかそれでもこの2人にしかわからない何か、があるような気がしました。そして、その絶対的な存在であったフロロを最後カテドラルから突き落とすシーン。まさにカジモドのインディペンデンスデー(笑)だと思うのですが、観客として見ていて、本当にカジモドの成長記のような感じがしました。

カジモドというと、一般的にはエスメラルダから愛されなくてもひたむきに彼女を愛し続ける姿が感動を呼ぶのだと思いますが、自分ももちろんその点に惹かれるものの、私は実は、それよりも、常につまはじきにされてきたカジモドがときに自虐的に告白する姿にすごく彼の人間らしさを感じて、いつも、彼の一人の人間としての生き方に親しみを感じてしまいます。彼の誰からも相手にされない嘆きも、かわいそうというよりむしろ哀愁を感じて愛らしいと思ってしまう自分がいます。


カジモドの全て、のノートルダムドパリ。
昨年の12月パリ行きのときここだけは
外せないとお祈りをしました。

もう一つ印象に残った歌詞。Ma maison, c'est ta maisonの一節。カテドラル(というか鐘つき部屋)は自分の全て、と言うシーンがありますが、このかたまり、最後のフレーズは、ノートルダムドパリは牢獄であり、祖国(故郷)である、で終わっています。ノートルダムドパリはあらゆる悪いものからカジモドを守るものであると同時に、この歌詞の通り、文字通り牢獄でもあります。何だかその現実が妙に哀愁があって、やるせない、、、と感動してしまいました。


フルール・ド・リスとフェビュスは、、、なぜか今回も印象が薄かった。。。ので、割愛します笑。


そして、物語全体として、今回フランス語版で一番強く印象に残った言葉はやはりこのミュージカルを象徴する言葉である"Fatalité(宿命)"でした。一幕最後のFatalité、英語ではOh destiny〜とちょっとカッコ悪い詞になっていましたが、フラ語版はダイレクトに「ファタリテー」と繰り返されててほんとかっこよかったです。最後のフレーズ、

Fatalité
Tu tiens nos vies dans ta main

我々の人生は宿命の手の中にある、という言葉で終わっていますが、自分もここ2年間、よく考えると宿命とは言わないまでも、何かの糸に引かれてここまでやってきたんだという気がし、舞台を見ながら、この2年間について思いを馳せてしまいました。

でも本当に、不思議な縁、力でここまで気づいたら来てしまったという気がします。そこで、いろいろな人と出会い、いろいろ学び、いろいろ考え、いろいろな場所に行き、そういう意味でノートルダムドパリは私にとって「運命」というか本当に大きな出会いだったなと改めて思いました。

配役の感想等は次の回にまとめました。

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