2015年7月12日日曜日

1789 バスティーユの恋人たち フランス版と宝塚版の違い <人物編>

前回の感想に続き、オリジナルの仏版と宝塚版の違いについて引き続き書いていきたいと思います。

とりあえず、人物設定から。

<ロナン>
オリジナルでは、デムーランや他の革命家に混じって、存在感が若干薄かったロナン。彼が父をラザールによって理不尽に殺された、ということ以外、実は、原作ではそれほど人物像は掘り下げられていませんでした。革命家としての成長も、革命のパンフレット作りには関わっていたみたいだけど、デムーランのように演説の草稿を書いたりしていたわけでもなく、まさに「名もなき一青年」として、最後に命を落とす、という設定だったので、ヒーローらしさやカリスマ性といったものもほとんどない役でした。したがって、ミュージカル内では、きっと主役、、、なんだろうけど、ちょっと主役としては弱いなといった感じの役でした。

対して、宝塚版では、ちゃんとヒーローになっていましたw そして、きちんとどの場面でも舞台を引っ張っていく役になっていました。特に宝塚版の演出でよかったと思ったのが、バスティーユ監獄で、彼が吊り橋の鎖を切り、それを突破口に襲撃がなされた、という設定の変更。彼が主人公であること、そして革命の中での意義がはっきりわかってすごくよい変更だったと思います。でも、オリジナルの、カリスマ性を持ったヒーローではなく、「一市民」としての「名もなきヒーロー」という点はしっかり踏襲されていて、うれしかったです。

聞くところによれば、一般市民が宝塚の主人公として取り上げられるのは非常に珍しいのだとか。でも、キャラ設定がはっきりしているような偉人ではない人を主人公にするのって、すごく大変だったと思います(オリジナルでもこの辺はいろいろ迷走感がありました。。。)。そういう意味で、ここまで名も無き主人公をうまくまとめ上げたのはやっぱりすごいなあと思いました。

また、もう一つ宝塚版ではっきりとなった部分が革命家の中でも彼は農民、つまり下層市民であったという点。無学だけれど、ハートだけは熱いロナンとデムーラン、ロベスピエールといった「プチ・ブルジョワ」な平民の間でも対立があったことは、オリジナルでも描かれますが、オリジナルでは印刷所での口論は、ダントンの「喧嘩は止めるんだ!」の一喝で事態は丸く収まります。そして、その後デムラーンとロナンはあれだけ喧嘩してたのに堅い握手を交わし一件落着してしまいます笑。

これもうちょっと深く描いても良かったんじゃないかなあと私は思っていたのですが、宝塚版では私が思っていた以上にこのエピが掘り下げられていました→っていうか、一曲この件についてだった(笑)(自由と平等(原題:Pic et pic et amstramgram))。この歌元々は、どっちかっていうと、我々の団結は堅い!みたいな曲だったんですが笑。

でも、実は革命側だって一枚岩じゃない、という視点は非常に大事なことだと思います。宝塚版の歌詞ではないですが、リアルに社会の不条理を自分の目で見てきている「この身体の肌一枚」のロナンにとって、リアルを知らないちょっとスノッブなデムーランたちはやっぱり「どうせお前たちは上から目線で、本当に苦しんでる人達のことなんかわからないんだ!」と憤りたくなる気持ちは非常によくわかります。それが宝塚版ではより丁寧に描けていたかなという気がします。

ただ、、、うーんと思ったのは、前回の記事にも書いたように、やはり彼の死に方。これは、、、オリジナルにやっぱり忠実であって欲しかったです。。。

あと、カーテンコールで(あ、でも宝塚はその後レビューがあるので、エンディングって感じかな。)、さっきまで薄汚れたロナンがいきなり宝塚の白い衣装でせり上がってきたのは、、、宝塚のスター様登場なので仕方ないのでしょうが、革命へ静かに思いを馳せる曲なので、自分としては違和感が無きにしもあらず。ちなみに、オリジナルでは、ロナンは襲撃シーンの汚いメイクのまま(仏版は、Sur ma peauのシーンで歌いながら顔に茶色の顔料を塗る演出があるのです。)、最後にオランプと手をつなぎ登場するのですが、このほうが、「革命」の意味を考える上では良かったんだんじゃないかなあ、やっぱり。。。

あと、これは全くどうしようもない話なのですが、、、オリジナルで演じていたルイくんは20代そこそこのあどけなさが残る青年。周りのデムーラン、ロベスピエール、ダントンを演じてた役者は30代くらい。明らかに彼が一人若造(笑)だったので、若さゆえの無鉄砲さや一徹さが大人に混じってがんばってる感が出てて、なかなかいい感じだったのでした。が、宝塚版は、、、やっぱり若く見せてる感じが(汗)。東宝版に出演予定の小池くんはそういう意味では、童顔なので、この辺は意外とぴったりくるかもしれません。

<アントワネット>
仏版ならオランプが次に来るはずですが、宝塚版は間違いなく、アントワネットがロナンに次ぐ主人公になっていたと言えるでしょう。そして、フェルゼンがメインキャストへと格上げされ(仏版ではダンサーが片手間で演じてたのに、歌まで歌ってたよ(驚き)!)この二人の愛も物語の大きな主軸になっていました。が、前回の記事のとおり、宝塚版は、本当にフェルゼンを心から愛していたけれど、国のために、家族のために、夫であるルイ16世のために、泣く泣く諦める、という純愛+耐える女、というストーリーになっています。

仏版との一番大きな違いは、このフェルゼンとの恋が物語のもう一つの主軸になったこととも関連していますが、マリーアントワネットが改心した理由です。

宝塚版では、フェルゼンとの許されぬ恋に身を焦がしたため、その罰として愛息である王太子が亡くなったとアントワネットが自分を責め、改心する、という設定になっていますが、オリジナルでは、フェルゼンは冒頭の逢引のシーン以外では登場せず、この恋愛が直接王太子が亡くなったこととは関連付けられていません。

神様の裁き(原題:Je vous rends mon âme)は原曲と同様、マリー・アントワネットが改心し、神の赦しを請うというコンセプトは同じですが、宝塚版は良妻賢母になることを誓う(爆)曲になっているのに対し、オリジナルは、冒頭は自分の贅沢三昧の生活が、平民の生活を犠牲にしたと言うのなら、私を許してください、と始まり、後半は、もう二度と帰ってこない息子への愛、懺悔、を語ってはいつつも、やっぱりそれが恋愛によるものだとは言っていません。私個人の解釈ですが、、、仏版の改心した理由はやはり、アントワネットも最後は全てを失って、ちょっとだけ平民の痛みに気づき、人間としての改悛の情が湧いてきたということなんじゃないかと思います。

しかし、どうしてこんなにも「良妻賢母」をプッシュするのかなあというのは自分の中で疑問に残りました。オランプに暇を出すときも、仏版では、国のために、という話以前に、自分は愛する人(フェルゼン)を追いかけられなかったけれど、あなたなら追いかけられる、と「恋する女」として、オランプを応援するという設定になっています(プロデューサーさんは、王妃、妻、母である前にアントワネットもやはり恋する女だったのだ、ということを言いたかったのかなと思います。)。宝塚版はこのシーンでは「女」なアントワネットがそこまで強調されてなかったような。

不義の恋ということについても、多分ベルサイユ・ワールドにおいて、愛人がいるなんてことは、日常茶飯事で、仏版では不義を後悔するなんて発想自体なかったんだと思うんですが(笑)、好きな人を諦め、貞淑な妻に戻る、という設定が、個人的にはすごく日本的な「ザ・清い人」な感じに見えました。。。

こういうところは、やっぱり日仏のモラル観というかそういう文化的背景が影響を受けているのではないかと推察。。。

でも、宝塚版でアントワネットを演じていた愛希さんは、その佇まいがまさにアントワネット。王妃としての威厳、そして凛とした美しさがぴったりハマっていました。あと、個人的に、全てを賭けて(原題:Je mise tout)以外の(笑)衣装がオリジナルより上品で高貴な感じがして素敵だったと思います。オリジナルは割と若めのかわいい子がアントワネットを演じていたのですが、私としては、愛希さんのほうが落ち着きがあって、ハマっていたかなあという気がします笑。

<オランプ>
配役の掲載順ではかなり格下げされていたオランプですが、、、舞台を見ている感じではそれほど存在感が薄れた、という感じはしませんでした。そして、ロナンとキスしてた回数、、、多分、仏版より多かった気がする笑。

キャラ設定もオリジナルからほぼ変更がありませんでした。良家の子女で、王妃様のためなら体張ってでもがんばる真面目ガール。でも敵であるロナンに恋してしまう。。。

ただ、彼女が1人で歌う曲がアントワネットに取られてしまったり、ロナンとのデュエット曲がロナンのソロ曲になってしまったり(Tomber dans ses yeux(邦題:二度と消せない))、歌うシーンは減った印象でした。

あともう1つ原作との違い、として思ったのは、「神」の存在が宝塚版ではロナンとオランプとの恋の焦点にあまりなかったことかなと思います。2人が別れてしまった理由は、革命に生きるvs王家に仕えるという任務という感じだったと思うのですが、実はオリジナルでは「神」が結構絡んでます。こういうところがやっぱりフランスっぽいような気が自分はしました。

宝塚版では「思いが違うの」というややわかりにくいセリフで2人の世界観の違い表現されていましたが、仏版ではもう少し細かいやりとりがあって、革命=神なぞいない、人間はすべて平等、人間が中心というパラダイムに生きるロナンと王家サイド=神を信じ、王権神授説の下、王を絶対化した存在として畏怖しているオランプが「愛を持ってしても超えられない(ように思える)決定的な違い」を巡り、口論になるという設定になっています。

あと、宝塚版でもやっぱり何故2人が恋に落ちたのかは、よくわからなかった気がしました。オリジナルはオランプが救出したときに一目惚れ、だったのか??ぐらいで全くの謎、、、でしたが、宝塚版もやっぱりそんな感じ??ぐらいでした笑。この部分はオリジナルのストーリー・ラインが弱くてどうしようもなかったのかなあと自分は思いました苦笑。

私が観劇した日は海乃美月さんがオランプを演じていましたが、真面目ガールな感じがぴったりですごくよかったです。

<アルトワ伯>
この役は、一番仏版と違うのではないでしょうか。役回りとしては、仏版のアルトワ伯(腹黒、策略キャラ)とラマール(オランプを囲おうとする)の役を合体させたような感じ。そして、そこにお耽美俺様キャラの要素が加わり、なんだかすごい魅力的な(笑)悪役キャラになっていました。これだけ悪役が美形なのも悪くないなあと思わず思ってしまったほど。オリジナルにはない、確固たるキャラにいい意味で変貌していました。

Je suis un dieu(邦題:私は神だ)は、オランプに迫る曲という意味では仏版と同じですが、仏版はラマール(宝塚版同様、ヘマばっかりしていつも空回り、でも威張りくさっている器の小さい男、という設定)が歌っていたので、むしろこの曲は、何だか滑稽な歌だったのですが、、、宝塚版は魅惑の媚薬ソング(笑)になってました。媚薬設定にはビビりましたが、これも、ありかなあと思わず思ってしまいました笑。

が、その変更のせいで、トゥルヌマンとロワゼルはまだしも、ラマールの存在が結構無駄っぽい印象を受けました。宝塚版でも、観客の笑いを取るために登場している役回りですが、どうも冗長というか、、、ラマールは潔く切っても良かったんじゃないかなあという気が自分はしました。あと、宝塚版はそんなこんなでアルトワ伯のキャラが独り立ちしてしまったので、ラマールとの軽妙な掛け合いが少々減ったような気がしました。そういえば、マイナーなところでは、宝塚版でラマールは死なないのでした。

<デムーラン、ロベスピエール、ダントン>
この3人の使い方が宝塚版では一番残念だったかなあ。オリジナルでは、見た目もキャラ設定も明確に違っていますし(デムーラン→理想家、ロマンティック、ロベスピエール→熱い、情熱家(恐怖政治の部分は出てこない)、ダントン→おおらか、女好き、3枚目)、それぞれミュージカルの鍵となる曲をソロで歌っているので(デムーラン→サイラモナムール、Fixe、ロベスピエール→A quoi tu danses、Hey ha、ダントン→Au Palais Royal)それぞれ非常に魅力的なキャラクターになっていました。が、宝塚では、衣装は違うのに、どうもみんな「同じ美形な感じ」に見えてしまって、しまいには、誰が誰だかわからなくなってしまいました、自分苦笑。というわけで、彼らは基本常にセットでプチブルジョワな革命家ズに見えてしまったのでした。。。

ただ、これは、明らかにロナンを主役として引き上げるために、行われた演出の変更によるものなので、仕方のないことなのかもしれません。でも、もう少し、3人の違いがよりはっきりしたら良かったのになあと思いました。特に割りを食ったのはデムーラン。サイラモナムールはロナンがリードを歌いバックコーラスに、Aux armes!(武器を取れ!)のシーンも連呼していた割りに、仏版ほどドラマチックなシーンにはならず(っていうか、テーブルに立っていたのはひょっとしてロナンだった??いや、さすがにそれはないよね。。。)、、、。ほんと、one of themに埋没してました。仏版は彼の存在が主役のロナンを食ってしまうほどに大きかったのですが、彼の持つ「理想の国」を目指そう!というロマンティックな雰囲気が少々宝塚版では弱まっていたかなという気がします(まあ、その役割をロナンが担っていた、と考えることもできるのですが。。。)。

あと、個人的にお、と思ったのが、デムーランの妻リュシーの登場。仏版にはない役なのですが、デムーランについて、自分が調べていた時に偶然この2人のラブ・ストーリーを知り(2人とも恐怖政治のときに処刑されてしまいます。)いたく感動したので、この改変ちょっとだけうれしかったです。

<ソレンヌ>
すでに前回ほとんど書いてしまったのですが、やっぱりフランス版との一番大きな違いは、オリジナルでは悲しみ、脆さを胸に秘めつつも、娼婦として生きる誇り、したたかさ、強さ(言葉はあまり素敵ではないけれど、何があったって生きてやる!みたいな雑草魂を感じた。)が全面に出ていたのに対し、宝塚版はロナンの妹という点が重視されていて、ちょっとかわいいキャラに変更になっていた点でしょうか。

変更点で一番大きかったのは、彼女の代名詞とも言える歌、Je veux le mondeを歌わないこと。この歌がなくなったために、彼女の存在感が一気に薄まり、舞台の中における「女性」の役割が一気に減ってしまいました。

オリジナル版ではかなり存在感があった役ですが、宝塚版ではかなり脇役に格下げの印象でした。ここは本当に残念。

<ラザール>
一言。う、美しすぎる。2階席からの観劇でしたが、はっきりとその美しさがわかりました笑。演じてらっしゃった星条さん、彫りが深いお顔立ちが際立っていました。オリジナルを演じていたマチューは、どちらかというとフランス人にしては薄い顔立ちをしていた(爆)+ロッカーなので、こんな眩いキラキラ感はなく、そのギャップに慣れるのに時間がかかりました笑。

ロナンの父を殺す仇役という点や無慈悲なサディスティック・キャラという点はオリジナルと同じでしたが、ロナンと歌うManiaque(邦題:耐えてみせる)とNous ne sommes(邦題:国王陛下の名の下に)の演出は結構違ってました。宝塚版はまさに美しいサディスト(爆)。

一番の違いは、Maniaqueで彼が実際にロナンに拷問を指示する役になっていたということ。これは、びっくりでした。が、、、私としてはこの演出はあまり好きではなかったかな。これは、仏版のコンセプトからちょっと外れていた気がします。。。フィジカルな暴力シーンは物語の設定上必要であれば、全然構わないのですが、、、個人的にこの場面で拷問を持ってくることが果たして必要だったのかな、、、と自分は疑問に思いました。前回の記事で、仏版の良さはエグさと書きましたが、こういうフィジカルなエグさを持ってきて、なんか残酷〜、と観客に思わせるのは、ちょっと安易な気がします(実際に拷問とかはあったのかもしれませんが…。)。精神vs肉体としたかったのはわかるのですが。

仏版も確かに、どんな仕打ち(父を殺されたり、土地を没収されたり)を受けても人間の「考え」だけは奪うことはできない、と訴えるロナンをラザールが嘲笑うという設定は一緒ですが、Maniaqueの歌の元々の意味は、フィジカルな痛みに耐えてやる、というよりも、マニアック(偏執者=取り憑かれた人)という言葉が示す通り、取り憑かれてしまうくらい強い復讐への怒り、また、「考え」によって体はどんなに捕らえられても自由でいられる、と主張するロナンとその「考え」によってお前は囚われているのだ=早くそんな馬鹿な考えを捨てろ、と嘲るラザールとの対比がメインテーマだったのですが、この辺、単純化されちゃって残念、と自分は思いました。

Nous ne sommesは、ラザールが指揮者のようになって(オリジナルでは実際に指揮をする振りがある。)軍隊を奏でる(笑)という演出があったのですが、それが確か宝塚版ではなかったか、あんまりよくわからない設定になってた気が。ここで星条さんがすごい声を潰してドス声で歌ってたのがそういえばこの曲では印象的でした。が、オリジナルですごく印象的だった「イっちゃってる」顔はやはり美の宝塚では無理でした苦笑。しかし、マチューに星条さんのお写真見せてあげたいわ笑。

<その他>
・フェルゼン
宝塚版ではアルトワ伯に次ぐ出世をしたキャラと言えるでしょう笑。これはやっぱり、ベルばらの影響なのかなあと思いますが。

前述のように、オリジナルでは半ばどーでもいいキャラでしたが、宝塚版では、アントワネットの相手役として、アントワネットへの純愛を貫き、最後は美しく身を引き、王家を守ると誓うまさに「王子様」キャラでした。そして、宝塚用の書き下ろし曲である「世界の終わりが来ても」のデュエットにも参加。振り返ると、フェルゼンぐらいしかザ・王子様キャラはこの作品にはいなかったな。。。

・ルイ16世
オリジナルではかなり幼稚でおバカなキャラ全開でしたが(笑)、宝塚版は政治に関心がなく趣味に走っていたとはいえ、かなり人格者だけど優柔不断な人、というやや救いようがある人物に改変されていました。

・オランプの父
オリジナルでは、ロナンの解放を訴えるオランプに対し、父は鍵を渡そうとしません!笑。なので、オランプは父がよそ見をした時を見計らって、バスティーユ監獄の鍵を奪取し、ロナンを助け出します。宝塚版でお父さんが、娘を信じよう、と言い、あっさり鍵を渡したのはかなりずっこけました。え?お父さん、あなた監獄の監視役でしょーが!笑。というわけで、医者を装ってオランプと一緒にロナンを救出するシーンもオリジナルにはありません。穿った考えかもしれませんが、オランプが一人でロナンを救出できないという改変もやっぱり宝塚だから?と思ってしまいました。

そして、前回の記事にも書いた通り、最後のシーンでオランプ父が救出されるといったエピソードもオリジナルにはありません。

・シャーロット
ロナンとオランプの恋のキューピッドという設定は同じですが、オリジナルは、2人の恋を応援しつつも、おしゃまな面もあり、ある意味小生意気な感じの女の子だったのが、宝塚版は本当に2人の恋を心から応援するかわいい女の子という感じにちょっとだけ変更されていたように思います。

オリジナルでもはっきりとは言及されていませんが、「パレロワイヤル」というおよそ子どもがいるべきではない場所を1人でうろついていたり、パリのあらゆる場所に精通しているところを考えると、シャーロットは、何らかの理由で孤児になった子だと思われるのですが、そういったたくましく生きる子ども、という部分が宝塚版は薄れたかな、という感じでした。もう1つ、シャーロットの見せ場だった、ダントンとの軽妙な歌の掛け合いがあるAu Palais Royalでの登場場面がカットされたこともあり、やはりキャラとして格下げされた印象でした。

・印刷所の人々
オリジナルでマラーは辛うじて、出てきてたと思いますが、それ以外の印刷工はダンサー1,2…といった感じで名前は全く付いてませんでした笑。なので、宝塚版でかなりの人に名前が付いてたのは新鮮でした。

・ギヨタン博士
これ、宝塚版の完全オリジナル・キャラですが、、、個人的に彼の役回り、というか、何度も何度もギロチンの機械が出てきて、repriseされる理由が私には全く謎でした。アントワネットたちがこの後、褒めちぎっていたこの機械で自ら命を落とすことになる皮肉、もしくは忍び寄る死の影を表したかったのではないかと想像するのですが、イマイチ話に関係ないし、あの小さなギロチンの模型が出てくる都度、私はイラっとしてしまいました笑。

全体として、ポリニャック夫人等、オリジナルでは歌を歌わないキャラもみんな歌に参加していたり、同じ人がいろいろな役を兼任したりといったことは無くなっているといった変更がありました。

こうやってまとめてみるとやっぱり結構変更があったなあと思うのと同時に、やっぱり文化の影響って大きいんだなと思いました。



2 件のコメント:

  1. こんにちは。

    登場人物の比較考証を読ませてもらうと、国とか、宗教観や価値観などの違いが二つの舞台に出てるのがよくわかります。

    日本に持ってくるにあたって、上演先の感覚に合うように、変更を余儀なくされてるんですね。

    来年、帝劇で上演するときは、男性キャストが入ってくるので、その辺で変わってくる部分も出てくる可能性もあるかもしれませんね。

    とても面白く、何度も読ませていただいておりますヾ(=^▽^=)ノ

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  2. 読んでいただきどうもありがとうございます!私も、改めて考えてみると、そういう文化的な翻訳も翻訳版には不可欠なんだなあと思いました。翻訳版の国で受け入れてもらえなければ、作品としては、失敗ということになってしまいますもんね。国の違いということもあるのかもしれませんが、ひょっとすると宝塚だから、という理由での改変の方も結構多かったのかなあと今は思います。すでにご覧になったかもしれないですが↓の記事も東宝版は結構変わるかもと書いてあって、個人的にオリジナルに近づくのか、日本独自路線になるのか、いろいろ注目です^^
    http://ticketcamp.net/takarazuka-blog/20150712-bastille-hikaku/
    おっしゃるように、男性キャストも合流なので、男臭さ(笑)ももっと出るといいかなあと思っています。

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